ロックフェス「NO NUKES」の嫌悪感


ロックフェスの形はいろいろあれど、いかなる政治意志でも、それを掲げるようなロックフェスには違和感を感じてしまう。

先日、Zepp DiverCityで行われた「NO NUKES」は脱原発を掲げたロックフェスとして2012年から開催されているが、
脱原発という「政治的イデオロギー」にロックが利用されているようで、嫌悪感をおぼえる。

昨今、原発問題は科学的な論点と、政治的論点がごっちゃになりながら、
イデオロギーとか思想の問題になっている。
個人的には科学的に論ずるべき問題だと思うけど、そこはおいておく。

いちファンとして、ロックはどんな価値観であろうと、どんな人種だろうと、どんな人間だろうと平等に楽しめるべきものであってほしいと思う。
ライブで隣にいる人間が、原発推進派だろうが、原発反対派だろうが、一緒に音楽を楽しめれば関係ないし、ステージに居るアーティストが何を考えていも、かっこいい演奏さえしてくれればそれだけで大満足。

そこに特定の価値観を否定するようなテーマをいれてほしくない。
もちろん、「命を大切に」とか「世界はひとつ」とか普遍的な主張はいいんだけど、
「原発問題」は科学的検証を踏まえて、考え続けるべき問題だと思う(多分、主催者はそういったことを考えずに、「命を大切に」とか「世界はひとつ」とかいうのと同じレベルで「原発反対」を掲げているのだろうが)。

論ずる余地が多分にある中で、ロックの熱狂に自らの主張を乗せることが正しいとはどうしても思えない。
もともと、ロックは反社会的というか社会運動とも結びついて発展してきたものでもあるけど、それは抑圧された中で自由を発散させるっていう意味が濃かったと思う。

もちろん、アーティストの方も一人の人間なので、自分の政治的意志を発するのはいいんだけど、ステージ上でそれを披露するのは絶対に違う。
悲しいかな、「自分の好きなアーティストが反原発だから反原発」「自分の好きなアーティストが原発推進だから原発推進」みたいな考えになってしまうファンも少なく無いと思う。
政治的意志を発するからには、できれば科学的根拠とその考えにいたるまでに得た情報を是非、開示してほしい(アーティストの方に限った話ではない)。

そして「NO NUKES」は、そういったことを全て無視して反原発を主張しているように見える。
賛成反対の意志はなくても原発問題を考えている人間や真剣に研究している科学者すらも無視している。
反原発を推し進めるにしても、良い方法とは思えない。

原発ゼロを目指す小泉純一郎、細川護熙両元首相が登壇したとか、もはやロックフェスなのかっていう疑問すら浮かぶ。
「反原発集会でアーティストがパフォーマンスを行ってる」って言ったほうが近いんじゃないか?

「NO NUKES」参加者、参加アーティスト、主催者とは、他のロックフェスで会いたい。
アジカンもアシッドマンもブラフマンも好きなバンド。
いつかのカウントダウンで見た坂本龍一もすごくかっこよかった。

でも、「NO NUKES」の在り方には反対だ。

アリーナの大勢の前で脱原発を高らかに主張する姿より、
小さなライブハウスの数人の前でダサくても愛とか夢を叫んでる姿の方がかっこいい。

Tags: